「昭和33年3月] 中日ニュース No.219_1「ご苦労さま南極越冬隊」(2:40) 西堀越冬隊長が永田隊長と一足先に羽田に到着、歓迎を受ける。
上の動画は、第一次南極観測越冬隊が 帰国したときに
実際に放送されたと思われるニュース映像です。
色んな意味で直視できないというか
さまざまな背景を思うと胸が締め付けられる感じがします。
南極に行く前に、一次隊の北村さん(犬係り)が
どうにかして南極に行きたいと駆けずり回っていた頃、
平行してどんなことが起きていたのかというと。。
①宗谷(南極に行くために使用した船)が水漏れを起こしていて
②溶接ができる製造技術者が大勢集められて徹夜で修理をしたり、
③1,000以上の企業がそれぞれの企業独自の技術や物資を提供したり
④現地で隊員が寝泊りするための木製のハウスというか
日本で初めてのプレハブを寝ずに急ぎで慎重に作ったり。。
などです。
で、宗谷という船は
南極行きのために用意した船なのかと思っていたのですが
もともとは旧ソビエトから(日本に)発注があって
日本で造った船だったらしいです。
けども、戦争が始まるというタイミングが重なったことで
交渉して日本の船として日本が使うことになったという経緯があって、
戦争のときに海外の日本人に物資を運んだりしていた船だったそうです。
もろもろの、「そういう背景があった上での犬のこと」となるのですが
飼い主目線での気持ちを思うと、犬を置き去りにしてきたことを
納得も理解もしたくもないという心情は痛いほど理解できます。
<時系列順のまとめ>
1945年8月(昭和20年)終戦
1955年7月(昭和30年)第一回南極会議 日本案を提出
1955年9月(昭和30年)第二回南極会議 日本参加の承認
1956年3月(昭和31年)北海道稚内公園でソリ犬の訓練開始
1956年10月(昭和31年)成犬20頭が貨物列車に積み込まれる
1956年11月(昭和31年)宗谷出航
1957年1月(昭和32年)第一次隊が南極リュッツォホルム湾に到着
1958年1月(昭和33年)第二次隊が南極に到着、天候の悪化で現地で難航
1958年2月(昭和33年)一次隊・二次隊帰国
【sayoさんの3つの素朴な疑問】
★二次隊3名が南極に降り立ち、天候が悪化したとしても
このまま3名で越冬するという意思があったのに
天候悪化で人命優先とはいえ、
なぜわざわざ3名を宗谷(船)に呼び戻した(収容)のか?
(アメリカに3名の意思は伝わっていなかったのか?)
★二次隊の南極入りが無理なら、一次隊がそのまま続行するという
一次隊の提案もあったのに、なぜ一次隊も二次隊も帰国となったのか?
★恐ろしい想像ですが、もしかして、
海外からは日本の観測隊をつぶすチャンスだと思われたのか??
ほう:報告
れん:連絡
そう:相談
が、うまくいかない状況が引き金となって
大変なことになってしまった。。(>_<)
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